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ねずみ君 蒲生四方面から登場〜 ※前にイニシエで〜 10年以上の年月の流れを感じます。 |
ブロが稲荷の朱色に溶け込んで〜 |
撮影中〜 |
本日二社目 皇大神宮さん ※拝殿社正面 |
本殿舎 ※伊勢神宮遥拝所 日露戦争戦役記念碑 |
兵士の順は 年齢順だとか〜 |
三郷橋水門 鯰江川に架かっていた橋の名と水門… 丸木舟が出土した近くにあったとか。 上側が山形に成っている〜 ※悪水碑 実際はどのように使われていたんでしょうか? |
小女郎稲荷さん 皇大神宮の境内に小女郎稲荷という小さな社が祀られています。 今でこそ知る人も少なくなっていますが、元は旧大和川堤(今の新喜多東2丁目付近)の狐山にあった社で、 大和郡山の源九郎稲荷(げんくろういなり)、泉州信太の(せんしゅうしのだ) の葛葉稲荷(くずのはいなり)と並ぶ有名な稲荷大明神でした。 「摂津名所図会大成」第3巻には「霊験あらたかなりとて参詣人すこぶる多し、社壇もっともきらびやかに造立ありて美なり」と記され、 今の極楽橋あたりまで参詣人目当ての茶店が軒を連ねて賑わっていたとのことです。 社の名称になっている小女郎とは、昔の身分の高い婦人や女官の呼称であった「上臈(じょうろう)」が変化したものと言われています。 狐山には木々がこんもりと繁った丘があり、狐が住んでいたことからそのように呼ばれていたものと思われます。 師走(しわす:12月)の一夜、鴫野や天王田などの村の子どもたちが、家で作ってもらった竹の皮に包んだ油揚げと握り飯を持って 「せんぎょせんぎょ」とはやしながら、狐山の周囲を回るお祭りも昭和 7〜8年頃(1932〜1933年頃)まで残っていたそうです。 (城東区HPより) ※眷属さんが好きな浮ドン |
由 緒 略 記 当宮の創祀には諸説がありますが、平安末期(1000年以前)今福村の 開発されたときに創祀されたと伝えられています。 榎並荘今福樋の東南の小丘(伊勢神宮の神税を納める斎蔵があったと言い伝わる) に鎮座し榎並一荘(現在の寝屋川以北の城東区域・旭・鶴見・都島区に当たる)の 鎮守社として崇祀された古宮であります。 荘内各村の開発と人口増加に伴い各村が産土神を祀ったことから旧今福村 の産土神となりました。 後醍醐天皇の御代に法華神道がさかんに信仰されたころ、 三十番神(日蓮宗の守護の神々)を合祀したころから 三十番神宮と称されるようになり、その社号が文禄三年の検地帳に見ることができます。 明治維新後、神仏混祀を禁じられたことにより、もとの皇大神宮として称され るようになりました。 ※ねずみ君 唐臼がと〜 |
神馬 高岡製でしょうか? ※本日第二講中 行者尊 と地車庫 |
撫で石 重軽石でしょうか? ※大峰山が信仰の的! |
一段高くなった路地に〜 もう一社 突き当りは地蔵様 ※弁天堂 |
散策中〜 ※ |
お邪魔して… ※ |
神様と成る松が生えていたんでしょうか? ※ん?力石では?? 高嶋先生〜 |
力石ですわ! ※きっと! |
其の路地の 北側に突き当たりは行者尊 ※反対は地蔵尊 |
水との戦いが石垣に見て取れます。 ※前にも〜 |
立派な御家 ※次へ〜 |
城東運河を渡ります。 ※水門横目に〜 |
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