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太秦交番西交差点 京都太秦ではございません。 ※太秦緑が丘方面 小高い丘だったんですね。 |
府道18号を東へ〜 登りなんですわ。 ※夕暮れが間近に… |
他は、すっかり昔と景色が変わっています。 この辺りは昔のママ〜 ※豊野浄水場脇です。 第二京阪も直ぐ傍 |
向こうの山の稜線と同じ高さ〜 あーしんど! ※大阪市水道局 豊野浄水場 |
浄水所正面入口脇に 本日お目当ての高塚古墳〜 再現されていました。 ※綺麗な円墳です。 |
太秦高塚古墳は、太秦高塚町に所在する古墳で、 周辺は、生駒山地から派生した標高40〜50mの丘陵がのびています。 付近には「塚」などの地名や発掘調査によって多数の古墳が存在したことが分かり、 「太秦古墳群」と呼ばれていますが、現存するのはこの太秦高塚古墳のみです。 (寝屋川市HPより) ※休憩所も在ります。 |
この辺りには 古墳群が在ったんですと! ※ |
太秦第二ハイツ地区計画 ※北側へは住宅地内の下り坂 |
此処が里山だった頃を思いながら〜 ※太秦住宅バス停 |
向こうには 三井が丘の給水塔も見えます。 ※打上川治水緑地 寝屋川市内の丘陵地では明治以前からお茶が栽培され、 明治の初期には茨田(まった)・讃良(さら)・交野の各郡の人々によって 河内茶業組合が結成されるほど盛んになりました。 産出量も多く質も高いため、製茶の最盛期には山城・大和・丹波から集まってくる 仲買人が三井村だけでも100人余りいたということです。 職人は河内の茶を終えてから宇治へ出稼ぎに行くのが常でした。 明治33年の旧水本村の販売量は、煎茶270貫・番茶300貫で、価格は846円。 米価格1石11円の相場からみてもかなりの収入だったことがわかります。 多くの職人のなかで名人中の名人といわれた人が三井村の馬場嘉平です。 彼のもんだ茶は、一晩戸外に出して夜露にさらしても 翌日それで障子を突き刺すことができたといわれ、 彼の弟子は全国に2000人を数えたということです。 人柄もよくいくつもの感謝状をもらった嘉平の功労碑が 三井本厳寺(美井元町)のお霊屋の墓地にあります。 (寝屋川市HPより) |
自動車では通る道なんですが〜 ※今度この続きはしましょうね! |
太秦元町消防倉庫 石燈籠も〜 ※ |
住宅地の中に 取り残されたような景色が〜 熱田神社 名古屋では有りません。 ※手水舎 |
熱田神社境内からは、昔から古瓦が出土し、礎石(そせき)に使用されたとみられる巨石が多く認められ、 付近一帯が古代の寺院跡であることが知られており、太秦廃寺跡とよばれています。 出土した重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)・唐草文軒平瓦(からくさもんのきひらがわら)は、 奈良時代後期から平安時代前期に属するものです。 太秦廃寺跡の実体については不明な点が多くありますが、 『広隆寺(こうりゅうじ)末寺別院記』に記載されている「河内秦寺」にあてる説もあります。 秦(はだ)・太秦(うずまさ)の地は、市域でも早くから人々が足跡を残した地域の一つであり、 約1800年前の弥生時代には、丘の上に全国的にも有名な高地性集落が営まれていました。 その後形成された古墳群(太秦古墳群)は、 わが国の古代史に多大な影響を及ぼした秦氏(はたし)の人々の墓と考えられています。 昭和37年(1962)には神社東の山の土取り工事中に全国でも珍しい牝鹿の埴輪(頭部)が出土しました。 ※神社正面 |
ご祈祷中のようで 遠慮させて頂きました。 ※ |
秦公民館 向こうの森は〜 ※加茂神社さんです。 道路に面して 明るい雰囲気 |
ケヤキも色づく前です。 ※小さめの社殿 |
保存樹だそうです。 ※神社前の家屋 |
ご本殿 ※道を隔てて〜 境内を横断するように道路が走った?? |
文化期の石燈籠 ※祈万民幸福 前には…少し違いますが〜 |
祭り帰りですね〜 ※旧村の道ですね。 |
広場に石燈籠が〜 ※石碑も〜 |
秦集会所 前の広場。 道路挟んで 向こうの森は加茂神社サン ※ |
妙見宮の石燈籠 ※先が気になります。 |
摂社だったんでしょうか? |
夕焼けの時分に成って来ました。 ※太秦から秦へ〜 町会が変わっています。 |
懐かしい路地です。 ※スミマセン暗くて〜 |
タバコ屋サン 腰タイル ※意匠がいいですね。 |
タバコ屋小町(看板娘)が居てた様な、 店の作り ※大阪の街中の路地のような〜 1 2 3 |
蔵も〜 ※ |
キョロキョロ ウットリしながら〜 ※ |
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屋門も〜 ※夕日坂〜 |