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大和棟ではない茅葺屋根も有ったんですね。 トタン被せですが〜 ※徐々に高度を上げていきます〜 |
なんか入りたいような路地〜 ※トタン被せが見え隠れ、 キョロキョロしながら〜 |
禰揚寺さん トタン被せです〜 ※あそこにも! |
此処にも 榧の木ですかね? |
日下東地蔵尊 ※再建されたんですと… |
見返って〜 ※トタン被せ、石屋サン まだまだ登りです〜 |
大龍寺さん 橋名が読めない。。 ※此の先行けば阪奈道路に出ます。 |
見返れば〜 ※向こうのビルの屋上と同じくらいの標高。 |
浮ドンヘ〜 ※彼は遊具が好きですねん。 1 2 |
空中庭園のような〜 ※大龍寺さん 山門 |
大龍禅寺だとか… 黄檗宗宇治万福寺の末寺で元瑞雲山巌松寺と称し、 河内地方では珍しく黄檗伽藍の雰囲気を伝える寺院です。 貞享3年(1686年)夏、かんばつが続いたため、奉宗禅師が雨乞いをしたところ、 たちまち雨が降り大龍が宮中に現れたというところから寺号を大龍寺としました。 (東大阪市HPより) ※ |
西国河内 第28番霊場とか ※ |
聖徳太子により創建されたと伝えられ、当初は厳松寺と称された。 応仁の乱や大阪の陣で灰燼に帰したとか。 戦災は嫌ですね! ※ 黄檗宗の魚板 前にも〜 |
国旗掲揚台? 前にも〜 ※玉垣? 学校の柵のようです。 郷学校跡(正法寺・大龍寺)大龍寺 明治政府は、明治5(1872)年8月明治維新後廃藩置県、徴兵令、地租改正などの 富国強兵策の一つとして「学制」を公布し国民教育を推し進めた。 学制に先立って河州河内郡日下村、芝村、植附村、神並村、喜里川村、六万寺村の 6ケ村連名の「郷学校開設」の申請が堺県に出され許可されている。 明治4年5月には、正法寺(現存せず)において教師2名、生徒数百名ほどでスタートした。 当時、「郷学校」を開設した村、地域は殆どなく、 この6ケ村住民の子どもたちの教育への願いと期待の大きさと共に、文化の高さが伺える。 明治5年7月には、生徒数も増え近くの大龍寺に移っている。 (歴史と街かどHPより) |
こんなロケーションで 未来を夢見て通っていたんですね〜 ※校門だったのでしょうか? |
この公園が運動場だったのでしょうかね? ムクノキも〜 ※日下村 石工 小平次生家跡碑 昔から石工の産地? |
稲の刈り入れ時期 ※ |
上田秋成隠棲の地&正法寺郷学校跡 *丹波神社前を西に下ったところに明治維新後廃寺となった正法寺がありました。 この寺は江戸後期の国学者で歌人としても名高い「雨月物語」の作者、 上田秋成が寛政10年(1798)に眼を患い、四ヶ月養生したところとされています。 (東大阪市文化財ガイドマップより) 中央右側の家屋辺り〜 ※日下太鼓台旗が目立つ 丹波神社さん到着 |
丹波神社 寛永11年(1637)大坂西町奉行に任ぜられ 日下村の領主となった曽我部守古祐(ひさすけ)をまつっています。 万治元年(1658)にこの地で没するまで、 村のために用水地に普請や治山治水の工事を領主の負担で行い、 村人に有利な検地を行うなどの善政に対し、 村人の感謝のしるしとしてこの地でまつられています。 (東大阪市文化財ガイドマップより) ※手水鉢 |
日露戦没記念碑 ※いきなり本殿舎 大きな太鼓台蔵が目に付きます。 |
実在の人物が神様に〜 天神さんのような〜 |
頭が大きめの狛犬 阿 ※吽 |
文献に依れば 力石も有ったとか〜 再度訪れて探しますわ。 高嶋先生 これより先は、近鉄孔舎衙駅跡などが有りますが〜 後ろ髪惹かれながら〜集合場所を目指します。 まださん再訪問しましょうよ! |