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旧大和川の名残の地区
故UFO先生の足跡も見えますか?
東大阪市近江堂向けて〜
近江堂T(09)

東大阪市域は令制国の河内国中部にあたる。
古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、
次第に海から分離して湖(河内湖)となった。
その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化したが、
こうした経緯から湿地・深田が多く、また洪水に見舞われやすい土地であった。

古代には物部氏の本拠地があり、
物部守屋の最期の地は衣摺(きずり、市西南部)であるなど、
早くから開けた地域であった。

飛鳥時代には中国大陸への玄関口であった難波津との街道筋にあたり
街道筋には多くの集落ができた。
奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、
その街道筋にも多くの集落ができた。
(Wikipediaより)

高嶋先生から尋ねられましてんと…
昔の資料から、近在の集落と力競べしましてんと〜

カモさん、ナオちゃん(怪親爺デビュー)も〜
狛犬の尻尾を愛でる!
まだまだサンと!!!

※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成25年05月26日 


※友井の住宅地

友井です。



弥刀小学校前を〜



角石は多く〜

※此処も〜


ん?

※唐臼見っけ!

石材は〜



式内社 彌刀神社(みとじんじゃ)到着
力石の調査開始

※近江堂会館
此処の前には無い〜

参道を〜

※手水鉢
参道抜こうは近鉄踏切…
 
見返れば紀元2600年記念碑

※神社専用掲示板

彌刀神社
若江郡に属し、近江堂字山の上に鎮座する当社も、
神名帳の記載からすれば、弘仁式となり、官幣小社であった。
祭神は、速秋津日子神、速秋津比売神と言われている。
本地域も嘗ては等高線5m内外で囲まれた一大港湾にのぞむ大きな水戸、すなわち海に入り込んだ地帯、
あるいは河口であったところから、大水戸と呼ばれ、それが「おおみと」と転じ、
さらに訛って近江堂と呼称されるようになったのであろう。

ところで古代では水の流れの速いところで祓いを行ったから、
やがてはその「速やかに明るく」という語が、
交通の要地であった本地域に祭る
水戸の神の名「速秋津比子神」「速秋津比売神」(秋は明の借字)にもなったものと考えられる。

当社創建の年代は明らかでない。
伝えるところによれば、由緒となるべき建物、器物などは、
天平宝宇6年(762)6月長瀬川(旧大和川)の堤が決壊した際、字切所、切下、切の浦からの激流のために流失したという。
東大阪市教育委員会式内 彌刀神社奉賛会


※手水舎

お百度石

※この地区は
明るい境内地が多い
社務所で力石のことを
お尋ねしたら、
『昔のことなので判りませんが、
力石は埋めてしまったのでは?』
と…ありゃ〜

境内摂社
八坂神社
桧皮葺なんですと。



南の参道

※直ぐに長屋でした。

柿の花柄…

近鉄大阪線脇

※ここにも紀元2600年記念銘
石燈篭〜

唐獅子牡丹

※本殿社前の狛犬

西側踏み切り前から〜

※気に成る空き地。
東日本大震災、台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
浮ドン、ねずみ君、福ちゃん、まー殿
お休み〜
中々、皆の都合が合わない。。。
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