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中高野街道を南へ〜 |
背の低い 街道沿いの家屋 ※ |
阿保(アオ)交差点 ※中高野街道から脇に〜 |
旧阿保の村中へ〜 ※古いタイプの唐臼 二態 |
他の石材に紛れて オブジェのような〜 力石は有りませんでした。 |
悠々とした玄関〜 ※石材も気に成りますが 前の露地も… |
橋の親柱? ※ん? 銅像〜 |
保田さん宅に、佐久三の銅像が建っています。正面台石に「保田佐久三君像 子爵加藤高明 書」とあり、 向かって右側に佐久三の事績が藤澤黄鵠によって記されています。 左側には、「大正十二年六月上旬建立」、「発企人」として、松原村の人々の名が27名刻まれています。 裏側には原形制作の黒岩淡哉、銅像制作の高尾定七の名が見られます。 佐久三は、明治22年の松原村発足とともに初代収入役となり、同36年には三代助役に就任しました。 同40年まで助役をつとめた後、同42年には二代松原村長につき、大正11年まで村政を担いました。 その間、佐久三は明治40年から大正8年まで、大阪府議会議員にもなりました。とりわけ、 明治44年から大正4年まで、府会郡部会副議長として、中河内郡を代表する政治家として活躍しました。 当時は、今と違って村長をつとめながら、府会議員を兼務することができたのでした。 佐久三像は、大正12年に、松原村の人々が地域行政に尽くした佐久三を称えて建立したものです。 本像が歴史的に意義を持つのは、一つには加藤高明が佐久三銘を書いたことがあげられるでしょう。 加藤は政党の立憲同志会や憲政会の総裁として、桂太郎内閣や大隈重信内閣の外相となった後、 貴族院議員に選ばれ、大正13年には内閣総理大臣になりました。 二つ目は、儒学者であり衆議院議員でもあった藤澤黄鵠が碑文を書いていることです。 黄鵠は、大阪の儒学の塾として有名な泊園書院の藤澤南岳の長男で、 漢詩の才能は父に劣らないほどでした。 三つ目は、関西彫塑界の生みの親ともいうべき彫刻家の黒岩淡哉が制作したことです。 淡哉は東京美術学校教員として、朝倉文夫や高村光太郎を指導しました。 大阪へ移った後、四天王寺の普賢菩薩像、四条畷の小楠公像、山科の蓮如上人像の大作を残しました。 また、高尾定七は大阪市東区瓦町4丁目で鋳造を行った工人で、 京都の北野天満宮の銅製狛犬や広島県大野町の子持観音像が有名です。 (松原市HPより) ※脇の地蔵様 |
屋門 ※マッテーな! |
此処も屋門 ※三突き当たって〜 |
あの楠が呼んでます〜 正面は西徳寺さん ※寺と銭湯と! |
清水湯さん ※阿保神社到着〜 |
鯉幟の季節です。 |
清水湯サン オガ屑で沸かされてるんでしょうね〜 ※柔らかな湯でしょうね! ワンコ、牢名主のように。。。 |
手水鉢 ※龍の彫り物 拝殿社 此の地区のスタンダード! 前にも 右岸側です。 |
祭神は菅原道真公 ※ 拝殿天井は〜 花鳥図 前には家紋でしたが〜 |
この楠の根には驚きました! 大きな樹は〜 前にも ※何でこんなに根上に なったんでしょうか? |
外には暴れていない〜 行儀よく密集しています。 ※変わった形の本殿覆屋。 |
空に向かって 手を広げて〜 ※根も〜 |
この辺り神社に楠が 多いんですわ〜 ※道真公が九州太宰府に 左遷される時に道明寺の叔母に 暇乞いをするために此の地で休憩したとか〜 一 二 三 四 五 六 有名人の足跡です。 |
神社と湯屋の関わりが〜 ※お百度石 |
遥拝所 伊勢でしょうか? ※コンナンは〜 チョット。。。 |
拝殿社 ※松原六社参り 阿保神社・阿麻美許曽神社・我堂八幡宮 柴籬神社・布忍神社・屯倉神社 (柴籬神社以外は、この日巡りました) 松原市やるな〜 |
新目の唐臼 ※阿保集会所 |
欠けてる… ※綺麗な軸受け部分 |
松お禰?満?古(?)記之碑 ※読めない。。。 |
地蔵堂 ※何? |
平安時代 阿保親王と在原業平が此の地に住み 拠って阿保との名が付いた。 丹比野の中位段丘上に開析された谷筋を堰き止めて 阿湯戸池・上の池・今池・小治ヶ池・ 樋野ヶ池・寺池・稚児ヶ池と不整形な池が一列に尾並んで 海泉池なる群池と成る。 古くからの三宅村・阿保村の立会い池で 分量石の樋より、三宅村の大海池への水利灌漑です。 ※楠が手を振って〜 |
海泉池満水石 文化5年(1808) 瀬戸内気候なんですね。 古くからの人の営み。 兵庫でも〜 |
立派な阿保公民館と 松原市民道夢館 ※昔なら大切な 池を埋め立てたの? |