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九段坂・牛が淵 武蔵野丘陵と河岸段丘。。 ※同じ景色は… 無理ですね。。。 |
品川弥二郎の銅像は、九段南二丁目2、九段坂・牛ケ淵のお濠沿いの九段坂公園内にあります。 上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光雲の監督。 原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎、建設者は西郷従道他2845名とされています。 建設年月日は不明です。 品川弥二郎は長門の国、松木船津の長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれました。 15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍。京都で倒幕運動に奔走しました。 維新後、明治3年(1870)戦争視察の命令で欧州に派遣。ついで留学を希望し、ロンドンに留まりました。 その後も軍事を学ぶため兵部省からドイツに派遣され、次第に政治や経済に注目するようになりました。 駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884)子爵に。 明治24年(1891)年第一次松方内閣の内務大臣となりました。 松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。 晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。 (千代田区観光協会HPより) ※内陸部に燈台〜 やはり台地の先なんですね。 |
田安門ですと… 前には〜 ※ |
やはり太田道灌の名が〜 |
皇紀2600年(昭和15年) 記念植樹 本体は枯れて… ヒコバエが〜 |
ビートルズも来た 武道館だぜ! ※氷室京介 カウントダウンコンサート〜 さいなら2012〜なんては言いませんよね。。 |
千鳥が渕の桜が見たいなぁ〜 ※ |
ヤマモモですかね? 大きな木 サムライ姿を知ってるって…(!?) ※北白川宮能久親王像 |
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、 弘化4年2月16日(1847年4月1日) - 明治28年(1895年)10月28日。 江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本の皇族、陸軍軍人。 幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、 仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。 (中略) 明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となる。 明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征(乙未戦争)。 ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。 しかしそれが秘匿されたまま遺体は日本に運ばれ、陸軍大将に昇進が発表された後に、 薨去が告示されて国葬に付された。 皇族としては初めての外地における殉職者となったため、豊島岡墓地に葬られた。 国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。 また後に台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、 敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社は全て破却されたため、現在は靖国神社にて祀られている (戦後の昭和32年(1957年)10月4日に、筑波藤麿宮司(当時)の指揮により合祀される。 昭和34年(1959年)に孫の北白川宮永久王も合祀)。 親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、 一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、 異国の地で不運の死をとげたことで日本武尊にたとえられた。 (Wikipediaより) ※力感的な銅像〜 新海竹太郎作 鋳造は陸軍砲兵工廠とか。。 |
工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。 この建物は、明治43(1910)年3月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、 近衛師団司令部庁舎として建築されました。 2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、 両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。 丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、 官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する 数少ない遺構として重要な文化財です。 昭和47(1972)年10月に外壁、玄関および階段ホールが重要文化財に指定されました。 翌年から保存活用工事が行われ、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設け、 煉瓦壁体はあたかも外装タイルのように扱っています。 屋根は震災後の桟瓦葺から建設当初のスレート葺きに復元されました。 中央の階段回りとホールの部分は、当時の姿を残しているといわれています。 東側に設置された和室も含め展示室は、東京国立近代美術館本館の設計者である 谷口吉郎によって設計されました。 (国立近代美術館工芸館HPより) ※ |
赤と白のコントラストが綺麗ですね。 ※レゴブロックみたい〜(失礼!) |
内堀通り ※坂下門〜 |
綺麗な石垣 ※石垣に隙間は有りますが〜 樹木は生えていない。。 |
建設中のビルは UP時には、とっくに建っていますよね。。 ※堀に水が張っているのは 落ち着きますね。 |
国土交通省気象庁のビルも〜 大手町のビル群が〜 ※平川橋ですね。 |
太田道灌公追慕の碑 残念石かと思いました… ※平成19年は 江戸城築城550年だったんですね。 |
和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。 氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)、のち藤野(輔治能)真人、和気宿禰、和気朝臣に改めた。 官位は従三位・民部卿、贈正三位、正一位。 (中略) 嘉永4年(1851年)3月15日、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈った。 明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、 明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。 また、明治31年(1898年)には、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進め、贈正一位とした。 また、出身地の岡山県和気町には、和気氏一族の氏神である和気神社があり、和気清麻呂・和気広虫が祀られている。 配流先とされる鹿児島県霧島市にも和気神社がある。 なお、宇佐へ配流の際に猪によって難事を救われたとの伝説が 宗佐厄神八幡神社・御祖神社・葛原八幡神社・足立山などに伝わる、 護王神社・和気神社・御祖神社などでは狛犬の代わりに「狛猪」1 2 が置かれている。 清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、 戦前には十円紙幣に肖像(想像図、キヨソーネの描いた木戸孝允の肖像画を修正したもの)が印刷された。 東京都千代田区大手町の大手濠緑地(気象庁付近)や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。 (Wikipediaより) ※治療された銀杏の木 落雷か?と思えば〜 |
震災イチョウ(しんさいイチョウ)とは、東京都千代田区大手町1丁目の「大手濠緑地」にあるイチョウの木。 関東大震災による火災から焼失を免れたことから、この名称が付けられている。 もともとこの木は旧・文部省庁舎のあった東京市麹町区一ツ橋1丁目1番地 (現在の毎日新聞社本社ビル近く)に植えられていた。 植樹は1860年ごろで現在の樹齢は約150年とされている。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。東京市中は猛火に呑まれ、 この木も表面の一部が炎と高温で変質するも焼失は免れた。 しかし周囲の樹木はこの木を除いてほぼ全部焼失し、以降「帝都復興のシンボル」として注目を集めた。 その後、帝都復興事業による区画整理が行なわれることとなり、「震災イチョウ」も伐採の対象となった。 しかし当時の中央気象台長・岡田武松が「この木をなんとかして後世に残しておきたい」と 復興局長官・清野長太郎に木の保存を申し入れ、清野も意義を感じてこれを了承した。 そして木は一ツ橋から、中央気象台のすぐ近くの現在地に移植された。 (Wikipediaより) ※ |
平川門横から〜 ※大手濠 |
この年最後の夕日が〜 ※大手門修復中〜 |
可愛い交番! ※ |
これが二重橋と思えば〜 奥に鉄製の橋が有るんですと… でも、綺麗ですね。 名は正門石橋ですと。 ※ |
パレスホテル東京 バックのビルは別に 表のビルの高さと思えば〜 1961年10月1日、丸の内の皇居前にパレスホテルとして開業。 前身は1947年に開業した貿易庁管轄の官営ホテル「ホテル・テート」。 2009年に改装のため一時休業するまでの 旧館は、地上10階建て、スイートルーム9室を含む全389室。 (Wikipediaより) ※ 大正5年に建てられた煉瓦造の二階建ての外壁のうち、2面を残し内側に新築のビルが建てられました。 「ファサード保存」と呼ばれる保存形式の代表的な建築です。 新築のビルは平成5年に建てられ、この前後、このような形での保存が全国各地に見られるようになりました。 煉瓦造の外壁から、丸の内界隈が「1丁ロンドン」と呼ばれた頃をうかがい知ることができます。 (千代田区観光協会HPより) |
「ファサード保存」 良いですよね〜 |
でも中央公会堂が こんなんに成ったら〜 悲しいなぁ。。 ※ 1 2 |
こんな感じで残るなら〜 大阪もすべきですわな。。 |
JR東京駅 よく出来ました! 空も広いし〜 ※ |
1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ 高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、 1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。 施工は大林組が担当。 日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、 1914年(大正3年)12月20日に開業した。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、 「東京駅」と名付けられた。 (中略) 建て替え計画は、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、 創建当初の形態に復原する方針がまとめられ、500億円とされた復原工事の費用を 丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することで、 丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなった。 復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成した。 (Wikipediaより) ※工事中は 1 2 |
ん? 立ってスケッチ… Kサン如何〜 えっ?腰が痛い〜 (ごもっとも、失礼!) ※後ろから失礼して〜 |