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九段坂上の靖国神社サン 靖国神社:明治維新で斃れた人々を弔慰するために明治2年(1869)東京招魂社として建てられました。 明治12年(1879)に靖国神社と改称され、以後今日に至るまで幾多の戦争での戦没者の霊が祭られています。 境内にある遊就館は、明治14年(1881)に開館した区内でも古い歴史を持つ博物館で、 奉納された武具・武器等が展示されています。 また、本殿、拝殿、靖国会館、遊就館などの建物は、区の景観まちづくり重要物件にも指定されています。 春には、千鳥ケ淵と並んで桜の名所としても知られています。 (千代田区観光協会HPより) ※燈台? 向こうは武道館の屋根… |
高燈篭(常燈明台):靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設されました。 靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた霊のために建てられたといわれています。 正式には高燈篭といいますが、常燈明台ともいわれています。 当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、 品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。 当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていましたが、 道路の改修に伴い昭和5年(1930)に現在地に移転しました。 (千代田区観光協会HPより) ※九段坂 武蔵野の端でしょうか? |
靖国神社 唐風狛犬 |
大村益次郎像 明治2年(1869年5月) 戊辰戦争終結(18日) 6月軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王の命により同副知事大村益次郎らが東京九段坂上三番町の 旧幕府歩兵屯所跡に赴き、招魂社建設地を検分(12日) 九段坂上招魂社社地を東京府から受領 仮本殿、拝殿を起工(19日) (靖国神社社史より) ※ |
此処も唐狛犬 ※神門の菊の御紋 |
外苑参道脇には 迎春参拝客の準備万端! ※外苑休憩所も目立ちません。 |
神門正面 ※手水舎も同じ意匠。。 西の靖国神社も〜 靖国神社から手水舎寄贈されたとか… へぇ〜路地徘徊ならではのビックリですね! |
中門鳥居 拝殿社 ※来年の巳年絵馬〜 |
八本脚台付き燈籠 |
禰宜さんも 準備万端! ※外苑休憩所の電電公社遺物。。 電報電話 今でも…? |
全国靖国献酒会 甲東会に UFO先生の文字が… (沢の鶴) ※此処にも〜 |
能舞台 ※老松バック |
特攻勇士を讃える 陸軍(航空隊・空挺隊・戦車隊) 海軍(海上挺・航空隊・特殊潜航艇・震洋) 計5843名 世界平和を望みます!!(合掌) ※ |
安政期の80ポンド陸用加農砲 加農砲:主に幕末以降、欧州の軍隊に範を取り火砲など多くの装備を輸入していた日本では、 名称はそのままに本砲を「カノン」と呼称。フランス語発音の「キャノー」を漢字に 当て字し「加農(かのん)」と表記した。 建軍以降フランス陸軍やドイツ陸軍に倣い、その後も長きにわたり欧州の影響を受けていた 日本陸軍(日本軍)では、この「加農」の名称を受け継ぐとともにまた終始一貫して「加農」の 名称を制式かつ正式の表記として使用している (兵器の制式名称・試製名称も「○○式○○糎加農」「試製○○糎加農」と表記する)。 「加農砲」の表記はあくまで俗称であるが、その語呂の良さから当時から陸軍内外でも 並行して使用されており、また日本陸軍の事実上の後身である陸上自衛隊では、 155mm加農砲M2といったように「加農砲」を制式かつ正式の表記として使用することになっているため、 現在では「加農砲」および「カノン砲」の表記が一般的となっている。 各言語での名称は英語: gun(ガン)、ドイツ語: kanone、フランス語: canon、ロシア語: пушкаなど。 なお、英語におけるcannonは「火砲」(「砲」)全体を意味し、 カノン砲をcanonと称するフランスでは榴弾砲は区別してobusierと称する。 (Wikipediaより) |
鋼製三十封度船用加農砲 江戸末期 |
護国 海防艦碑 日本海軍における海防艦は、1942年7月1日の類別変更を境にその性格が大きく異なる。 変更前は、旧式化した戦艦や巡洋艦を海防艦として類別し、 軍艦籍のまま近海・沿岸の防備に用いていた(以下「旧定義艦」)。 これに対し変更後は、漁業保護や海上護衛を目的とし、 昭和12年以降に新造された小型の護衛用艦艇を海防艦と改めた。 通常は海防艦といえば、この変更以降のものを指す。 なお、現在の海上自衛隊にはこの艦種区分は存在しないが、 戦前の就役時点では海防艦としての役割も兼ねて設計された日本海軍の橘型(改丁型)駆逐艦「梨」を、 海上自衛隊が組織としての連続性を示す証として再就役させ、護衛艦「わかば」として運用した事がある。 現在では海防艦の役割は海上警察力(諸外国の国境警備隊に相当)である海上保安庁が担っている。 (中略) 終戦までに完成した海防艦171隻のうち72隻(戦史叢書では開戦以後167隻完成、71隻喪失)が失われた。 この奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の前に、戦争末期には日本の海上輸送はほぼ壊滅することとなる。 また、レイテ沖海戦及びマリアナ沖海戦で連合艦隊が事実上壊滅すると、残存の戦力として、 海防艦が第一線に押し出され、終戦まで作戦行動を継続した。 (Wikipediaより) ※靖国偕行文庫 |
神池 四谷から玉川上水を引いたとか。 ※名勝 靖国神社 神池・庭園 |
行雲亭の向こうに 無粋なビル〜 |
第一鳥居横の 慰霊の泉 ※ |