川沿いの道を〜
※荒手茶寮横目に〜
旭川が大きく蛇行してます。
|
岡山城
戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで
近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。
当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、
その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。
その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、
石山城を取り込む形で城郭が建造された、これが岡山城である。
城の縄張は基本的には梯郭式となっており、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。
言いかえると本丸の北から東には郭の無い、非常に防備が薄い縄張である。
そのため旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の備えに利用したとされる。
さらには郭の代りとして、「後園(後楽園)」が築かれたともされる。
天守は4重6階の複合式望楼型で、特に初重平面形状が歪んだ多角形をしているため、
同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかと言われているが、
羽柴秀吉による大坂城天守を模しているという説もある。
その外観は黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、
隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されることもある。
元禄時代の古地図からは、五重の濠に囲まれた城郭と、南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺える。
(Wikipediaより)
※桃太郎印?マンホール
|
発掘調査中〜
※少し傾斜のゆるい目??
|
※
|
散歩道には調度良い!
※
|
秋色に染まりますか?
※大阪城天守に似てますかね?
|
秋色天守
※
|
石垣の変色は後の戦のせいなんですね。
※宇喜多氏顕彰碑
|
背伸びして〜
|
※
|
廊下門
※宇喜多氏当時の城郭石垣
|
金の鯱が見えます。
※多聞櫓
|
堀の向こうに
エエ町並みが〜
※
|
銀杏も綺麗に〜
※菊花展
|
不明門
※鉄筋コンクリート製の
現天守閣に在った
元の天守基礎石
|
コンクリ製ですか〜
大阪城と一緒!
※月見橋
これを渡れば岡山後楽園へ〜
|
小学生時分に家族で来た思い出が〜
渡ったんでしょうかね?
覚えてない。。。
※自然の要害を利用するから
直角に曲げてます。
|
コンクリ蔵に
コンクリ天守
女学生の帰り時間。。
気ぃ付けて!帰りや!!
|
堀向こう側の町並み
※あそこに居たんですな。
|
林原美術館
林原美術館の場所にはかつて岡山城二の丸屋敷の対面所が存在していた。
対面所の建物は明治維新後には取り壊されたが、その跡に岡山藩の支藩・生坂藩(岡山新田藩)の
武家屋敷の長屋門などの建物が移築され、旧藩主池田家の事務所として利用されていた。
しかし、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲により長屋門と土蔵を残して焼失。
美術館建設に際し、焼け残った長屋門は美術館入口として、土蔵は展示室として保存・活用された。
(Wikipediaより)
※自動車に肩身が狭い。。
でも、好きな風景!
|
岡山神社さん
|
此処も鉄筋コンクリート製の社殿
※海鼠壁土蔵
|
後日、作業中の写真
※モルタル長屋
|
三連橋を〜
工事中でした。
※渡った所の
西大寺町商店街
|
ルネスホールは岡山市の中心部、岡山城に程近い城下筋にある公共ホール、
正式名称は「岡山県おかやま旧日銀ホール」である。
日本銀行岡山支店が旧岡山赤十字病院の跡地に1987年(昭和62年)に移転し、
その後使用されていなかった旧支店を岡山県が譲り受け改修したものである。
(Wikipediaより)
※堤防上の町並み
|
新鶴見橋
脇の本瓦家屋
天女鏝絵
※路面電車の走る景色
|
何度か
三連橋を通りました。
※
|
小橋駅付近
※橋上からの川岸風景
|
岡山駅前駅
終点風景
※
|
大阪アベノ橋の景色にも似てますか?
|
岡山城が笑ってました。
移動中自動車助手席から。。。 |