JR新幹線潜って〜
※さい川原橋
|
左岸から岡山市内望む〜
※河川敷工事中
|
さい川原橋
※水門
|
操山〜笠井山横目に
藤原町辺り
※
|
気になる石碑ですが〜
確認できなかった…
※R250号
百間川橋渡って
|
上流部見返って〜
当時の百間川は、通常時には平坦な水田地帯の中に一定間隔で並行する2本の堤防が河口まで連なるもので、
1960年代から始まった国の大改修事業まで同じ景観を保っていた。
堤防の高さは2メートル前後で、これに切り通しを設けて道路や鉄道を通す陸閘(りっこう)が多数存在した。
河川区域の中央には用水路が設けられ、当初から河川区域外と変わらない水田耕作が行われた。
放水時には流失して収穫が得られない可能性があることから、岡山藩は河川区域内の水田については、
年貢を通常の水田より低く抑える措置を取っていた。
(Wikipediaより)
※橋梁下潜って〜
|
ランニングコース
※案外流れてます。
|
右は笠井山
真ん中には芥子山
※山裾のトタン被せ屋根
|
此の山裾の道路が昔の海岸線?
※
|
柿の木ですかね?
※河口から10kmの所
|
笠井山麓
※
|
腰の高い蔵
水との戦いの跡ですかね?
トタン被せも〜
※米田橋が見えてきました。
|
百間川に存在した陸閘。
増水時には縦に切られた2本の溝にそれぞれ木製の板を落とし込み、
その間に土嚢を詰めて水を防いだ。河川敷内に保存されているもの。
背後は米田橋
(Wikipediaより)
※瀬戸内名物の蛸
|
米田の集落
百間川が東から南へ
大きく向きを帰る場所近く。
※米田の集落にお邪魔して〜
|
入口に鎮座する地蔵様
※エエ感じ〜
|
人々の祈りが〜
|
トタン被せ
※
|
農家路地
※
|
米田公会堂
※道標と井戸跡
|
四つ辻に成ってます。
※岩間権現宮さん
|
切通しの道は続きます。
※墓地は村の外れに〜
|
扁額を〜
※お邪魔して〜
|
屋門も此の地の
スタンダード!
※小さな境内地ですが
清潔に保たれています。
本殿も〜
|
狛犬
阿
※吽
|
なで肩な狛犬
※尻尾は
なにわ型
|
拝殿と本殿社
※飾り瓦は菊?
除虫菊では無いですよね??
|
手水鉢
※注連縄
|
村の外れの石祠
※
|
庚申塚ではないみたい。
|
藁帽子
刈入れも終わって〜
※
|
河口から7km付近
※
|
オスプレー
(ミサゴ)です。
※水門も
|
この橋を渡って西大寺にも
行きたかったのですが〜
※山に抱かれるような
新興住宅地
|
旭川は明治以降相次いで氾濫して岡山市街地が水害に見舞われたため、1926年(大正15年)から大改修が行われた。
百間川では1961年(昭和36年)の第2室戸台風災害を契機に、1963年(昭和38年)から建設省(現・国土交通省)が改修に着手。
1968年(昭和43年)に河口部の水門と堤防の整備を終えた。
次いで中・上流域で、河川区域に低水路と高水敷を設け堤防を整備する河道整備工事が
1974年(昭和49年)から1983年(昭和58年)まで行われ、
岡山県下で戦後最大を記録した1972年(昭和47年)7月豪雨時の流量(毎秒800m3)に耐えられる構造になった。
この工事にともない、建設省による河川区域内の水田の買収が1971年(昭和46年)から進められ、
江戸時代から続いた耕作が消滅した。
また旧山陽道など一部を除き、陸閘で河川区域を横切っていたほとんどの道路が新規に架けられた橋に移された。
さらに堤防改修工事が1996年(平成8年)まで続けられ、残る陸閘もすべて橋に置き換えられて姿を消した。
高水敷には堤防改修終了後、公園施設やテニスコート、野球場、サッカー場などが整備され、幅広く市民に活用されている。
(Wikipediaより)
※
|
西大寺方面
※河口方向
向こうの山陰は玉野市方向
|
芦ノ原
手を振ってます。
※砂川が流れ込んで来てます。
|