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大字中島の集落を〜 この辺りも高島宮 - 『古事記』や『日本書紀』において、 神武天皇により吉備国に営まれたとされる行宮が在った? ※明善寺合戦戦死者首塚 明善寺合戦 備中国を掌握し、さらに備前国制覇をも目論んでいた三村氏と、 当時浦上氏被官の中で頭角を現した宇喜多直家との間で戦われた合戦である。 三村勢が総崩れとなったことから「明善寺崩れ」とも呼ばれる。 (Wikipediaより) 大切に祀られています。 |
今在家天満宮さん 大字今在家 ※脇から見たら 小さな社ですが。。 |
真新しい狛犬 阿 ※吽 |
石の扁額 ※石標は新しい |
屋門の両脇には 右大臣 ※左大臣 大切に〜 |
手水鉢 ※立派な拝殿社 |
本殿舎裏から〜 ※社森はさっぱりと〜 明るい境内 |
木野山神社さん 合祀されて。 |
拝殿社から本殿社への渡り廊下 ※屋門両脇に楠 |
用水路が張り巡らされて〜 此処も又、太古からの児島湾の埋立地ですかね。 ※向こうにもう一社 |
備前八幡宮さん 此処は鎮守の森が〜 ※山城国男山から勧請されたとか。。 |
手水舎 ※屋門 |
施錠が頑丈すぎて 見えん〜 ※ |
真新しい狛犬 桟瓦の拝殿社 ※ |
社務所 ※本殿舎 |
多くの神社が合祀されてます。 ※ |
力石では〜無いですわな。。 ※文政期の手水鉢 |
※中島城跡 道路脇に〜 |
この城に関する文献は少なく詳細は不明であるが、室町時代後半から戦国時代にかけて存在していたものと思われる。 当時、この一帯は金川城主松田氏の勢力下にあり竜の口城の属城としての役割を果たしていたようである。 城主についても諸説あるが、いずれにしても最後の城主と伝えられる中島おおいのすけ大炊助は、 備中高松城の攻防において毛利方に組して重きをなした中島氏の縁に連なる者と考えるのが至当であろう。 結局、当城は永禄10年(1567年)備前沼城主宇喜多直家と、備中松山城主三村元親による 明禅寺合戦により戦場となって蹂躪されてしまったが、子孫は宇喜多氏・池田氏へと仕えて連綿と続けてきたそうである。 現在は、当時をしのぶ面影はないが、地元住民には「若宮様」と呼ばれて親しまれている。 ※中島地蔵尊 |
水路と白壁土蔵 |
腰の高い蔵 ※ |
水場も〜 ※ |
向こうに百間川堤防〜 ※ |
なんかホッとします。 ※焼き板は好きです。 |
農家風景 ※堤防上には道路が走っています。 |