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難波橋渡って〜 ※中の島へ〜 向こうの橋は 栴檀木橋(今は鉄筋コンクリート製) 昔に比べたら〜 空が狭くなってます。 |
変形四階建て〜 中の島公会堂へ〜 ※大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、 株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、 1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。 北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった 1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、 アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる 慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。 彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、 蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。 (Wikipediaより) |
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、 岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。 1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。 岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、 公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。 ※建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。 意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、 細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、 松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。 (Wikipediaより) |
1930〜40年台の英国製自転車と… ハイポーズ! 内部は前に〜 |
ランプ台 |
パルテノン宮殿のような 大阪府立中之島図書館 住友家の寄付を受けて建造が開始され、1904年(明治37年)に「大阪図書館」として開館した。 設計は野口孫市、日高胖。ネオ・バロック様式で建てられた建物は、 1922年(大正11年)に左右の両翼を建て増しし、現在の形となった。 本館は大阪空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫の増築を経て、 今も残っている。 1974年(昭和49年)、本館と左右の両翼が共に国の重要文化財に指定された。 ※なお、本館正面の門は特別な時にしか開かれず、一般利用者は階段両脇の入口から入る。 (Wikipediaより) |
余裕の有った時代の空気感が 話しかけてくるような〜 ※ |
水晶橋より 大江橋望む〜 ※日本銀行大阪支店旧館 明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建設された、 緑青の色が美しい円屋根をもつレンガと石造りの3階建て本格的洋風建築。 設計は東京駅舎や中央公会堂を手掛けた辰野金吾らによる。 江戸時代この地には島原藩大阪内屋敷があり、 明治初期には関西財界の指導者五代友厚の別邸があった。 昭和の時代、業務空間拡大のため、一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、 3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、西側敷地に高層棟を新築した。 (大阪市観光HPより) |
淀屋橋上より 御堂筋沿いの ミズノ本店ビル望む〜 美津濃とは、自身の苗字「水野」ではふさわしくないと考えた創業者水野利八が 故郷の旧名(美濃)の間に津(実家が木材問屋)を当て、会社に人材が集まり、 店が発展したとき、子孫以外の人材に立派な才能を持った人が現れるように願いを込めたものである。 1987年(昭和62年)、社名表記が漢字の「美津濃」からカタカナの「ミズノ」に統一化されている。 (Wikipediaより) ※ |
北浜に戻って〜 |
大阪倶楽部 大阪倶楽部(おおさかくらぶ)は大阪府大阪市中央区にある歴史的建造物。 1924年(大正13年)の竣工以来、 社交倶楽部である社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用され続けている。 1914年(大正3年)に創建された英国城館風の大阪倶楽部旧館は 同倶楽部の主唱者であった住友家を代表して総理事鈴木馬左也がその評議員でもあったので、 当時の住友本社営繕課建築係が設計を引き受け、野口孫市と長谷部鋭吉がこれにあたった。 1922年(大正11年)に失火のために焼失し、1924年(大正13年)に現在の建物が再建された。 第二次世界大戦下の1945年(昭和20年)3月15日には帝国海軍がこれを徴用した。 日本の敗戦にいたっては占領軍が接収をなし、1952年(昭和27年)4月10日に解かれるまで供された。 (Wikipediaより) ※昔は消防出張所 前に〜 |
イタリア料理店でランチして〜 |
折角ですから〜 この日のメニューをば… ※生ハム |
パスタ ※メイン 鴨肉 |
デザート ※ |
元消防署の名残を、 遊び心で… 店の名もイタリア語で消防署だと伺いました。 |
二階の室内は〜 |